恋をとめないで <6>-Kaori-


【2】

 カオリの部屋にスーツケースを押し込むとよっすぃーは無言のまま出ていこうとする。

 「あの…さ」

 「もう終わった事ですから…飯田さんも普通にしててください」

 さっきまでの不機嫌そうな表情をしていたならまだ良かった。
 あきらかに作った笑顔ででそれだけ言うと、再び声をかける余地など与えてくれず出ていってしまったよっすぃー。
 仮面のような笑顔はあの時の無表情よりもずっと痛々しく感じた。
 あれから本当に好きな人には出会えたの…よっすぃー?
 

 三年前、カオリは突然に恋人を失った。
 三年前、よっすぃーは突然に大好きだったお兄さんを失った。

 ダイビング中の事故。
 経験豊富でいつも慎重な彼が、何故天候が荒れそうだっていうその日に無理に潜ったのか、ダイビング仲間達もカオリも不思議に思ってた。
 その理由を知っている可能性があるのは唯一人、その日彼とバディを組んでいたよっすぃーだけ。
 けれどよっすぃーは、命こそ落とさなかったけれど事故のショックでとても口のきける状態じゃなく、誰も何も聞けないまま真相は解らずじまい。

 彼の遺体は海流に乗り事故が起きたところからずっと離れた場所で見つかった。見つかるまで半月もかかったのでとてもひどい状態で身元も身につけていた腕時計やアクセサリー、そして最終的には歯科のカルテを照合してやっと確認したという。
そんな状況で家族すら棺の蓋を開けて死に顔を見る事もできないまま葬儀が執り行われた。
 事故の知らせを受けてから葬儀場に足を運んだその日になってもなぜかカオリの涙は一滴も流れなかった。
それは彼の遺体を見ていないから死んでしまったという実感が持てなかったせいなのだと思っていた。
 彼の死という現実を嫌が応にも突きつけられる葬儀会場でも悲しいという気持ちより、得体のしれない恐怖感みたいなものにカオリは捕らわれてて泣くことができなかった。

 親族席に俯いたまま微動だにしないよっすぃーの姿が痛々しくて声をかけられなかったのは頭や腕に巻かれた白い包帯のせいだけじゃない。
 涙を流すでなく感情というものをどこかに置き忘れてきたような無表情。
 お焼香した後、ご両親に軽く頭をさげてそのままよっすぃーへと視線を移す。
 俯いていたよっすぃーがのろのろと顔をあげてカオリと視線を合わせた…。
 その一瞬によっすぃーの両の目から堰を切ったようにあふれ出した涙。
 その涙を見たとき、カオリは初めて恐怖の正体…自分が泣けない理由を知った。
 カオリはよっすぃーを…恋人の妹を…。
 

 あの夏、彼が『紹介するよ』と連れてきた女の子は素直で明るくてとびっきりの美少女なのに、どこか少年のような言葉遣いや無造作な仕草で、そのアンバランスさが却って人の気を引くようなコだった。
 いつでもお兄さんの後をついて回って彼のする事を真似ばかりしていた。

 彼と妹は兄妹だからあたりまえだけど顔つきは驚くほど似ていて、以前に見せられた写真は彼がふざけて女装したんじゃないかって疑うほどだった。
 もちろん普通に年齢や性差による体格の違いはあったけど、顔だけ見たら双子?ってくらいに似ていた…たったひとつ決定的に違うのは海に通い詰めて褐色に焼けた彼の顔と正反対に白いよっすぃーの顔…透き通るような白い肌。
 しばらく太陽を見つめた後みたいに瞼を閉じても焼き付いている…それくらい強烈なイメージを残す白。

 その日、初めてダイビングを教えて貰えるって、目をキラキラさせていたよっすぃーは14歳という年齢相応の子供っぽさで末っ子のカオリは妹ってのもいいものかもしれないなって素直にそう思ったものだった。

 それから彼と海に行く時は必ずよっすぃーが一緒で、兄妹が海に潜っている間カオリはクルーザーの上でスケッチなんかしたりしながら二人を待って…港に戻ると三人で食事して、ってそんな風に過ごしていた。
 最初の頃はデートなのにいつも妹を連れてくる彼にちょっぴり不満な気持ちもあったけど、カオリを姉のように慕ってくれるよっすぃーがかわいくて段々とそんな気持ちも薄れていった。
 それどころか、よっすぃーが来れない日なんかはちょっと物足りない気がしたり逆に彼が急用で来られない日にはよっすぃーと二人何するでもなく防波堤に座ってまったり過ごすのも全然苦じゃなくなっていた。

 彼が大学の都合で忙しくなると、よっすぃーと二人で会うことの方が多くなって…時々ふっと彼と別れる事があってもよっすぃーとは今までどおり一緒に遊びたいなぁ、なんて考えることまであった。
 そういうカオリの気持ちがなんとなく伝わってしまったのか、それともただ単に会わない時間が長くて戸惑う気持ちがお互いの中に生まれたせいなのか彼との間がちょっとぎくしゃくし始めた時にあの事故が起こった。

 …カオリひどいよね、冷たい人間だよね。

 葬儀場でカオリにすがりついて泣きじゃくるよっすぃーの背中を撫でながら死んでしまったのがよっすぃーじゃなくてよかったって思ってる。
 ずっと無表情だったよっすぃーがカオリの胸で泣いてくれているのがうれしかった。
 恐怖の正体はカオリ自身の冷たい心。
 冷たい海の底で命を失った彼と兄を失った悲しみにくれてるよっすぃー、二人を裏切っている邪な自分自身が恐かったんだ。

 葬儀の翌週の日曜日、よっすぃーと会った。
 よく二人で過ごした防波堤の上、待ちあわせたワケじゃないのによっすぃーもカオリもそこで会ったことを驚かなかった。
 二人ともお互いの手にした葬送の花束を見て、口元だけで小さく微笑む。
 カオリが防波堤の先端から軽く花束を海に投げ入れると、よっすぃーも自分が手にしてた花束を海に向かって力いっぱい投げた。
 海風に煽られた花束からこぼれた花びらが幾枚かヒラヒラと舞ってよっすぃーの元に戻ってくる。

 「許さなくていいから…」

 花びらのひとつがよっすぃーの髪にそっと着地して、それをカオリが摘んだ時よっすぃーは確かにそう言った。
 目線は海を見つめたままで、誰に対しての言葉なのか、何に対しての言葉なのか解らなかった。
 その横顔があんまりキレイで…カオリは花びらを摘んだ手を下ろせないままで。
 よっすぃーがカオリの方に顔を向けた時、強烈な想いが沸き上がる。
 カオリはやっぱりこのコが好き、でももう会っちゃいけない…これ以上裏切り続けちゃいけない…そう思ったらふいに涙が溢れてきた。
 よっすぃーの目にはきっと恋人を失った悲しみの涙に見えたのだろう…。
 カオリより少し背の低いよっすぃーは何も言わずにぎこちなく抱きしめてくれる。
 じんわりと伝わる温もりにカオリの中で悪魔が囁く…今ならきっとよっすぃーはどんな願いでも受け入れてくれるに違いない。
 自分の中の邪な気持ちが恐くてたまらないクセに…カオリはよっすぃーの背中に腕を回していた。

 「カオリを一人に…しないで」

 悪魔の囁きに負けたんじゃない…カオリ自身が悪魔だったんだ。

 それからカオリとよっすぃーは事故が起こる前と同じように週末ごとに二人で過ごした。
 一つだけ変わったことはあの海に行かなくなったことだけ、カオリはよっすぃーといる時、二人の間に以前はもう一人の人間が存在していたことさえ忘れてた。

 「カオリさんが新しい恋を見つけるまでウチが兄貴の代わりするから」

 時々、よっすぃーがそんな風に言う時にだけカオリは自分が悪魔だっていうことを思い出して辛くなる。
 けれどもカオリはそんなよっすぃーの優しさにつけ込むように本心を隠したまま恋人ごっこを続けることを辞められない。
 カオリが望めばよっすぃーは、頬を赤く染めて戸惑いながらも抱きしめてくれた…キスも…それ以上も。
 そんな関係がいつまでも続くわけないってカオリにも解ってた。

 1年が過ぎてあの日が近づいて来るとよっすぃーは目に見えて落ち着きがなくなって…カオリの胸の不安も膨れ上る。
 そして、事故からちょうど一年目のあの日、やっぱり約束したワケじゃなく二人はあの防波堤に居た。
 カオリがついたとき、よっすぃーはもう先に来ていて海を見つめていた。

 「もう…いいよね」

 手を伸ばしたらもうよっすぃーに触れられそうな所まで近づいたとき、波音に紛れて聞こえた呟き。
 よっすぃーは最初から同情してくれていただけ、よっすぃーにとってカオリはただ同じ人を失った痛みを慰めあうだけの相手。
 事故のショックから立ち直ったよっすぃーがこんな関係を終わりにしようと思う気持ちは至極当たり前のこと。

 優しいよっすぃーがカオリに最期を伝える言葉を探して迷わなくて済むよう先に口に出した。

 「カオリね…好きな人が出来たから、もうよっすぃーとは遊べない」

 よっすぃーは背中を向けたまま一瞬肩を震わせたけど『うん…』と短く答えた。
 違う!よっすぃーのためじゃない、カオリは好きな人に捨てられる痛みに耐えられなかっただけ。
 捨てられたんじゃないカオリが捨てたんだ、そう思い込むことで楽になろうとしただけ。

 振り返らず立ち尽くしているよっすぃーを残して防波堤を降りた。
 小走りにその場を離れながら涙が後から後から溢れ出して、すぐにでも取って返してよっすぃーにすがりつきたかった。
 でもカオリはよっすぃーに拒否されるのが恐かった、邪な自分を知られるのが恐かった。

 あれから一度もよっすぃーに会うことはなかった、もう二度と会うことなんかないと思っていたのに…。
 最後まで自分の事しか考えていなかったカオリは今になって罰を受けるんだね。
 好きな人に『もう関係ない』って顔をされても平気な顔で毎日を過ごして行く…。

 いつの間にか溢れていた涙が辛い思い出のせいなのか罰を受ける苦しさのせいなのか解らないまま…部屋の中が蒼い帳に包まれてもカオリは座り込んだその場所から一歩も動くことができなかった。

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