|
【1】
圭ちゃんが出て行くと部屋の中で動く物がなくなって、一気に空気が緊張したように感じる。
冷蔵庫のモーターやエアコンの作動音がこんなに大きいなんて普段は気付かない事にばかり気が行ってしまう。
どうしよう、怖くてよっすぃーの顔を見ることもできない。
俯いたままスケッチブックを抱く手にギュッと力を込める、よっすぃーに何を言われても黙って聞くしかない、悪いのは全部カオリなんだから。
「何で?ウチの絵ばっかりなの?」
どのくらい二人身動きせずに黙ったままだったのか、しびれを切らしたようによっすぃーが立ち上がる。
また、カオリは自分から話しださなきゃいけない場面でよっすぃーにそれを押し付けてしまった。
どこまでもずるいカオリ、自分勝手に別れて自分勝手に想い続けて…。
「ゴメンね、別れた相手にこんな事されてたなんて気持ち悪いよね」
謝りながら大した事じゃないんだって、そう思われたくて少し微笑んでみる。
カオリ上手に笑えてるかな?
「そんなこと聞いてるんじゃないよ!」
ちょっとキレ気味によっすぃーが近づいてくる。
「ウチの事どう思ってたの?」
カオリの本当の気持ち…よっすぃーを好きで仕方なかったカオリ。
死んでしまった人はよっすぃーのお兄さんなのに、悲しむ気持ちをどこかに置き忘れてしまったカオリ。
本当の気持ちを話すのが怖い、けどこのままなら同じこと。
どっちにしてもよっすぃーがカオリの元に戻る事がないなら、今日ここで全て話してしまえば終われるのかな。
ずっと怖かった自分自身の暗闇、いつまでも忘れられない想い、そんな物に決別できたなら新しいカオリが生れるのかな…。
思いきって話してしまおう、そう思って口を開くけれど声は素直に出てくれない。
何度も息を吸い込んで口を開くのに何も出てこなくて、ただ焼けつくような喉の奥からヒューヒューと空気が漏れるだけ。
「………」
口を動かすけど声が出ないからよっすぃーには伝わらないね。
「『好き』って言った?」
珍しいものでも見るようなよっすぃーの顔、信じてもらえないよね。
「じゃあ、何であの時ウソなんか吐いた?他に好きな人が出来たなんてウソだったんでしょう?」
よっすぃーの強い口調がカオリを追いつめる。
もう本当に終わりにしたい、いつでも楽なほうへ楽な方へと逃げてしまうけれど、目の前の問題から逃げても結局行き着く先には更に苦しい現実が待ってるだけなんだ。
今更、全てを話してもよっすぃーに冷たい軽蔑の眼差しを投げ掛けられるだけなんだろう。
でも圭ちゃんの言っていた『始めなければ終われない』という言葉に縋ってみたい…今のこの状況でカオリにそれ以上の考えなんて浮かばないから。
「ずっと…好きだった…んだと、思う」
喉が渇ききって声を出すのが辛い、違う…また自分まで誤魔化そうとしてるカオリ。辛いのは本当のことを話すのが怖いから。
「…っ」
よっすぃーがカオリの言葉に反応して何か言おうとするのを遮って続ける。
「まって、待ってよっすぃー、カオリの話最後まで聞いて」
全て話そうと決めたけど、よっすぃーの真っ直ぐな視線に気圧されてしまう。
手にしたスケッチブックを一枚一枚めくりながら視線を落として何とか話し出す。
「あのね…多分カオリは彼が亡くなる前からよっすぃーを好きだったんだと思う。でも、自分の気持ちに気付いたのはお葬式の時」
一番、話したくない事を口にする時は何度も唾を飲み込んで、指先はせわしなくスケッチブックの端をなぞる。
「あの時、カオリね…全然、悲しく…悲しくなかったの。恋人が死んだのに涙も出なかったの」
よっすぃーの顔を見るのは怖いけれど大事なことだからきちんと目を見て話さなくちゃいけない。
恐々顔を上げると空気を切り裂く音がするんじゃないかと思うくらいに強い視線を感じて思わず目を閉じてしまう。
だめだよカオリ!ここでそらしたらこの先ずっとそらし続けなくちゃならないよ! 自分で自分を励ましして、そっと瞼を上げてよっすぃーと視線を合わせる。
「あのね、彼がいなくなった事よりよっすぃーが生きててくれた嬉しさの方がずっと大きかったの…よっすぃーがカオリに縋って泣いてくれたのが嬉しかったの」
よっすぃーの視線の圧力に負けないようにカオリもできる限り強い目で見つめ返す。
口元は何か言いたげに時折ピクっと引きつるように動く不満げな表情だけど、よっすぃーはカオリの話を最後まで聞いてくれるみたい。
「お兄さんと付きあっていたカオリが本当は妹のよっすぃーに恋してただなんてあんまりにも酷い話、だからもう会っちゃいけない最初はそう思ったの」
よっすぃーの表情が険しい怒りから苦しそうに歪む。
「本当だよ、最初はねもう会わないって…本当にそう思ったんだよ」
全てを話してしまおうと決心したのに、まだ怖がっているカオリはつい言い訳めいた言葉に力を込めてしまう。
違う、言わなきゃならないのはこんな事じゃない。よっすぃーが知りたいのはカオリが嘘を付いた理由だけなんだから。
「よっすぃーが同情からカオリの願いを聞き入れて付きあってくれてたのは解ってた、それでもカオリ幸せだったの、知ってたけど…忘れちゃうくらい幸せだった」
今でも時折夢に見ることがある…防波堤に座ってもたれ掛かったよっすぃーの肩の温もり、一人にしないでと縋るカオリを抱きしめてくれた腕の感触。
キスの後紅く染まった頬や照れ隠しに宙をさ迷う視線、カオリがワザとよっすぃーをコドモ扱いするとちょっぴり拗ねた表情で睨んでくる顔。
夢の中でカオリは本当に幸せで、けれど夢はいつもよっすぃーの一言で終わるの…『気が済んだ?』って、そしてカオリ泣きながら目が覚めるんだ。
「あの日ね『もう気が済んだでしょ』って…冷たく言われる気がしたの。いつかよっすぃーが離れていく日が来るって解ってたけどいざその時が来たら怖くて。カオリはズルイから自分が傷つかない方法を必死に考えたの…」
そう、見たくない場面の直前に無理矢理テレビのスイッチを切るようにカオリは『好きな人ができた』って嘘を言った。
本当の結末を見ていないから、夢の中で何度も何度もよっすぃーの言葉に泣くしかないの…今日、本当に終わらせる事が出来たらカオリもう悲しい夢を見なくて済むのかな。
「ゴメンね…カオリはよっすぃーに嘘ばかり吐いてた」
全て話してしまえば楽になれると思っていたけど、何かがカオリの胸の奥にひっかかっている気がしてどうにもスッキリしない。
まだ…あと何が残ってる?よっすぃーに話してないこと…。
話している間止まっていたカオリの指先がまた忙しなくページの縁をなぞり始める。
「なんで、今ごろになって…あの時言ってくれなかったのさ?ウチは…ウチは圭織さんのこと…」
カオリの事?…何?
「好きだったのに…圭織さんの事、本気で好きだったのにっ!」
よっすぃーが突然怒ったような声で近づいて来て両肩に手をかけて揺すられる。
「っ…!」
指先に走った痛みに顔を顰めてしまう。
右手の中指にうっすらとついた傷、見ているうちに血が滲んでくる。
よっすぃーに乱暴に揺すられた拍子に紙の縁がカオリの指を傷つけた。
今、よっすぃーは何て言った?本気で…って?
じんわりと血のにじむ指先をジッと見つめる。
本気?カオリの事好きって…誰が?
ジンジンとしびれるような痛みを発するその赤い筋を見るうちにカオリの中で何かがキレた気がした。
9−【2】←・→10−【2】
|