恋をとめないで <2>-Maki-


【1】

 今日はなんだかすごく調子がいい。昨日まで何度やっても指がもたついちゃってた所もすんなりクリア。
 この曲の練習を始めてから、今までで一番うまく弾けた気がする。
 コンクールって苦手なんだよね、課題曲になるようなヤツってどうも気が乗らない。譜面見ただけで眠くなっちゃう、一辺本気で鍵盤に突っ伏して寝ちゃったことあったっけ…。
 だけど、一度すんなり弾けたとたんに、なんとなくこの曲が好きになれるような気がしちゃう。私ってけっこうお手軽な性格なのかな。

 いい気分になった所で、今日の練習はもう終わりにして、部屋に戻ろうと思ったけど、なんとなくもうちょっと弾きたいなって思った。でも、もう課題曲はいいや…うーん、何弾こう。ちょっとだけ考えてパラパラと弾き始めてみた。
 バッハ…シンプルだけど落ち着くから好きなんだ。

 二声のインヴェンションを1番から順に弾いて…なんだか気分が高揚して来たのか、最初はそのまま普通に弾いていたんだけど、3番4番と弾き続けてるうちに指が勝手に動きだす。
 なんだっけ、これ…。ああ、このあいだ聞いた『プレイ・バッハ』だ。
 頭の中でジャズテイストのドラムが鳴り響く。
 6番を弾き始めた時、防音用の中扉が開いて誰かが部屋に入ってきた。今日はみんな出払っていたのに、誰が帰ってきたんだろう。

 夏休みも帰省せずに残っている寮生で音楽室に来そうなのは…。同じ高校の後輩で声学をやってる愛ちゃんぐらいのものだけど今日は夕方まで合唱部の練習だって言っていたから違うよね。
 ふと、目を上げて入って来た人を確認しようとしたけど、グランドピアノの屋根を上げているから私の視界は斜めに断ち切られて肝心の顔を見ることができない。
 黄色い半そでTシャツの袖からスラリと伸びた白い腕。透き通って向こう側が見えそうな、その白い腕にごっつい皮のリストバンドが巻き付いてて、それが腕の白さを一層際立たせてる。
 その腕の持ち主を探して、寮生の顔を順に思い浮かべてみたけど、どの顔も近づいてくる白い腕とはつながらない。

 余計なことを考えていたら、だんだんと手元が怪しくなってくる。
 黄色いシャツと白い腕が、すぐそこまでやって来てピアノの側で立ち止まった。
 このパートを弾き終わるっていうその時白い腕がすーっと持ち上がる。不覚にも私の意識はすっかりその腕に吸い寄せられてしまい、それまでなんとか保っていたテンポが腕の動くスピードを追いかけていた。
 軽快なリズムを刻んでいたバッハは最後に段差に蹴つまずいたみたいにつんのめってすっ転がった。

 すっごく恥ずかしかったけど、そのまま知らん振りで7番を弾き始めようとした時、白い腕がせわしなく動いてパンパンと手拍子みたいな拍手が聞こえてくる。
 なんとなくタイミングを失った私はバッハを諦めて、白い腕の持ち主の顔を確かめようと立ち上がった。

 「すっげー、かっけー!ピアニストみたい」

 ちょっとハスキーな声、やっぱり声にも聞き覚えが無い。
 少しだけピアノを回り込むと、初めて見る…女の子?が笑顔でこちらを見ていた。
 女の子、だよね。ココって男子禁制だし、裕ちゃんが男の子の侵入を許すワケないもんね。
 その見慣れない女の子は、たぶん私と同じくらいの歳。ちょっと背が高くて、スポーツでもやっている感じのがっちりした体格。
 最新のナイキのスニーカー、ひざ丈のカーゴパンツに黄色のTシャツがすっごく似合っている。
 明るめの茶色に染めたショートヘア、ぱっと見は男の子に見えたけど、よく見たらすっごっくキレイな顔立ちをしている。腕と同じように透ける白さの肌に大きな瞳が印象的だった。
 けど…誰?

 「ピアニスト目指してんだよね」

 その声に、私は自分が見知らぬ女の子をじっと見つめていた事に気づく。あわてて、視線を声のした方…女の子の後ろへやると、寮でのお隣さんの圭ちゃんが少し離れた所に立っていた。それまで、圭ちゃんがいることにも気づかなかったほど、私の意識はその見知らぬ女の子に引きつけられていたんだ。

 「こんにちは、初めまして吉澤っていいます。夏休み中ここにいることになりましたんで…よろしく」

 その女の子…吉澤さんはそう言いながら右手を差し出して来た。握手って今どき珍しくない?
 元々、初対面の人と話すのが苦手な私はやっとのことで「どうも」って一言だけ言って、差し出された手には気づかないような振り。すぐに視線を圭ちゃんの方へと泳がせる。

 「あたしの従妹なの、歳も一緒だし仲良くしてやってね」

 従姉妹なのに全然似てないなぁ…って、そんなコト思っていると吉澤さんは力なくダラリと下がっていた私の手をちょっと強引に握ってブンブンと振る。
 びっくりして思わず、その手を振りほどいて少し身を引くように身体を捻った。きっと私の顔は怒ったような険しい表情になっちゃってるだろう。
 吉澤さんは、私の態度に少しだけ驚いたような顔をした。

 会ったばかりなのに馴れ馴れしい人ってちょっと苦手、つい表情も硬くなっちゃう。子供の頃から人見知りで困る、もうちょっと愛想よく出来ないの?ってお母さんに言われ続けてた。
 だけど初めて会った人相手に楽しくもないのに笑えないよ、しょうがないじゃん。
 私と吉澤さんの間の気まずい雰囲気。それを取り繕うように圭ちゃんが私たちの横まで近づいて来た。

 「510号室の後藤真希ちゃん。アタシらの間の部屋だからお隣さんだよ」

 吉澤さんは、黙ったまま少し顎を上げて目を細めて私の顔をマジマジと見ている。
 私が手を振りほどいたりしたから怒っているのかなって思ったけど、口元には薄い笑みが浮かんでた。

 「真希ちゃんていうんだ、可愛くて才能もあるなんて神様に愛されてるんだね」

 細くなっていた目をカッと見開いた吉澤さんは、顔を必要以上に私に近づけてニッコリと笑った。
 その笑顔はなんだか恐いくらいにキレイで、笑い返そうと思ったけれど大きな瞳に見つめられたまま私は瞬きも出来ずに固まったままで…。

 何も返すことが出来ないまま立ち尽くしていると吉澤さんは「赤くなっちゃってホント可愛いー」と囁いて私から離れていった。
 圭ちゃんを促してドアを開ける。先に圭ちゃんを廊下に出すと吉澤さんは私を振り返ってもう一度笑いかけてきた。

 「楽しい夏休みになりそう…また、あとでね」

 そういって、ウィンクを一つ。そこでやっと私は自分を取り戻した。
 なによ、なんなの?なんでそこでウィンクするわけ?
 って、それよりなんで私、赤くなってるの?相手は女の子だよ。
 気づけば私の心臓は、さっきすっ転んだバッハみたいにめちゃくちゃな変拍子をきざんでいた。

1−【2】←・→2−【2】


妄想文リスト倉庫入り口トップ